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障がい者スポーツ指導員 宮本聖史さん レポート

“障がい者スポーツを生涯スポーツに”障がい者スポーツ指導員 宮本聖史さん レポート

今なお城下町らしい落ち着いた風情が残る鳥取市。この閑静な街で、障がい者スポーツの普及に尽力されているのが、障がい者スポーツ指導員の宮本聖史さん。19歳のとき病気で右足を失うも、会社に勤めるかたわら、車いすバスケットボールの普及に努められ、精神障がいのある人たちへのソフトバレーボールの指導、車いすマラソンへの参加など、東奔西走での大活躍の日々を送られています。「障がい者スポーツは、本当は誰もが楽しめるスポーツ。だから、障がいのあるなしに関わらず、みんなで楽しんでほしい」と語る宮本さん。今回は宮本さんの、スポーツと、それを通した人との交流への熱い思いをレポートします。

車いすバスケットボールの仲間たちと宮本さん(後列左から二人目)。

絶望の中で毎晩、走っている夢ばかり見ていました。

足を切断してからが本当につらかった、と語る宮本さん。

鳥取にいた高校時代は陸上競技の長距離の選手だった宮本さん。高校卒業後、日本電信電話公社(現西日本電信電話株式会社)に就職して大阪の寮に住むようになってからも、夜のジョギングを楽しんでいました。
ある日、突然、右ひざに今までにないような激痛を感じた宮本さん。病院に行くと、「ひざの裏に腫瘍があるので切除しましょう」と医師に診断され、すぐに手術して腫瘍を取り除いたものの、後からこの腫瘍が悪性だということが分かり、右足を切断しなければならなくなりました。「突然、鳥取から両親が大阪にやってきたんです。最初は観光に来たのかな、と思っていたんですが、担当のお医者さんが右足切断のことをぼくより先に両親に伝えていたんですね。ふたりとも驚いて慌ててやってきたようです」。
19歳だった1976年9月に入院し、11月に手術で右足の大腿部の真ん中辺りから下を切断。翌年の1977年3月に退院するまで約半年の入院生活を過ごした宮本さん。「成人式の日は病院にいました。でも、患者さんや看護師さんたちがぼくを祝ってくれたんです。とてもうれしかったのを覚えていますよ」。
退院して間もなく元の職場に復帰。手術から退院までの4カ月にわたるリハビリの成果で、義足を使った歩行はかなり上達したといいます。「でも、病院で歩くのと実際の道を歩くのは、まったく異なっていました。実際の道には病院のような平らなところがほとんどないんですね。歩道にしても真ん中が高くて両側が低かったり、凸凹があったり、石ころや砂、雑草があったり……。病院では“きれいに歩くこと”を意識していましたが、実生活では“痛くないように歩くこと”に気を使いました」
切断を告知されたときより、義足をつけて実生活を始めてからの方がつらかったといいます。「他人に足を見られるのが嫌で、寮のお風呂も夜中にこっそり入っていました。ですが、夜遅く入浴する人もいますから、夜中に洗面所で髪を洗ったり、部屋の中でタオルを使って体を拭いたり、次第にお風呂に入らなくなっていきましたね。でも、そんな私を見かねて、寮母さんが寮母用のお風呂を貸してくれたんです。誰からか、ぼくの状況を聞いたんでしょうか。週に3度ほど、寮母さんのお風呂にお世話になりました」。
「走るのが大好きだった人間が、そのころは歩くことさえ嫌になりました」と振り返る宮本さん。足が痛く、休憩しながら歩くのが申し訳なくて、人と一緒に歩くのを避けるようになり、毎日、早朝に寮を出て、なるべく人の通らないような裏道を使って大回りして出勤したそうです。「毎晩毎晩、走っている夢を見るんですよ。あのころは、足のないのが夢で、この夢が覚めたら足のあるぼくがいる、と真剣に考えていました」。

新しい人生のスタートとなった、障がい者スキーとの出会い。

退院して社会復帰した1977年の12月、宮本さんは障がい者スキーと出会います。友人が「片足でスキーをしている人を見た」と教えてくれたのです。スキーをしたことがない宮本さんでしたが、興味をひかれて片っ端から片足でできるスキーの情報を集め始めました。「今みたいにインターネットがあるわけでもなかったので、とにかく電話でいろんなところに問い合わせました。なかなかほしい情報が得られなかったのですが、あるスポーツ用品メーカーに連絡したら、“日本身体障害者スキー協会”を紹介してくれたんです。今はない組織なんですが。その協会に電話して、講習会の場所と日時を教えてもらい、早速道具をそろえて参加しました。後に始めるアーチェリーや車いすマラソンもそうですが、どうもぼくは道具から入るタイプのようですね(笑)」。
この講習会に参加して、宮本さんは大きな財産をふたつ獲得します。ひとつが、仲間。宮本さんと同じ義足でふたまわり歳上のYさんと、筋ジストロフィーのSさん。彼らと意気投合し、3人で1980年代の冬の休日はほとんどスキーに出かけていたそうです。「筋ジストロフィーのSさんは、荷物を持つことができないけれど走れます。義足のぼくとYさんは荷物を持つことができるけれど走れません。当時、スキーは夜行列車を乗り継いで出かけることも多かったのですが、ぼくたちには乗り継ぎ時間が足りないこともたくさんありました。そこで、走れるSさんが先に電車に乗って待たせておいて、ぼくらがなんとか乗り込む……なんてことがよくありました。今では考えられないことなんですが」と懐かしそうに語ります。今もこの仲間とスキーに出かけるといいます。ただ、Sさんは筋ジストロフィーが進行して、数年前から一緒に行けなくなったそうです。「でも、彼の伴侶が来てくれています」。スキーの縁は、家族ぐるみの仲間をつくってくれたのです。
もうひとつの財産が、人前で義足をはずす勇気を持てたこと。「スキーをはじめるまでは人前で義足を見せることも嫌だったのに、スポーツをするときは人前で義足を脱げるようになりました。何かがふっきれたんですね」。このときから宮本さんの新しい人生がスタートしたのです。

現在も友人たちとスキーを楽しむ宮本さん(前列左から二人目)。

好奇心のままに、さまざまなスポーツを経験。憧れの駅伝コースを車いすで走る。

宮本さんは、スキーで知り合ったYさんの紹介で大阪市長居障害者スポーツセンターに通い始めます。そこで、最初に出会ったのがアーチェリー。何度か撃っていたら、インストラクターの方から「一緒に道具を買いませんか。安くなりますから」と誘われ、道具を買ったことから本格的に始めたそうです。「アーチェリーはかなりいいところまで行ったんですよ。カテゴリーは射程距離の短い30m・50mと長い70m・90mがあるんですが、30m・50mでは、いろんな大会で入賞したりもしました」と。アーチェリーだと、下半身に障がいがあっても障がいにはならない。つまり、競技の種類やルールで障がいをなくすことができる、ということを教えてもらったと、宮本さんは感謝しています。
その他にも、「大阪府を一周しよう」と始めた自転車、バドミントン、柔道、車いすマラソンなどのスポーツを経験。特にバドミントンは、日本初の障がい者によるクラブ「シャトルコック」を発足させ、今では全国組織になっているそうです。また、車いすマラソンは、まさに“道具から入るタイプ”の典型的な例。「レーシング用の車いすが、あまりにかっこよくて思わず買ってしまいました。近所にあまり車の通らない道があったので、そこまで車いすを運んで、試走してみたんです。少し下り坂だったので、けっこうスピードが出て気持ちよく走ることができました。ある程度の距離を走って、さあ、折り返して帰ろう、としました。ところが……、帰りは緩やかだけれど登り坂だということをまるで考えていなかったのです。行きは20分ほどだったのが、帰りは2時間以上かかりました。誰か迎えにきてくれ!と何度も心の中で叫びました(笑)」。
その後、友人から、トレーニングの方法や場所を教えてもらって、一生懸命に練習し、数年後には、京都で行われる車いす駅伝の全国大会にも出場。今でも年に一回のペースで大会に参加しています。「高校時代、長距離走をしていたので、京都の駅伝コースには人一倍思い入れがありました。高校の陸上選手の憧れである全国高校駅伝大会と同じコースだからです。初めて車いすで走ったときには感動で体が震えましたね」。

今でも年に一回「鳥取さわやか車いすマラソン大会」に参加しています。

障がい者スポーツは、誰もが参加できて一生つきあえるスポーツ。

選手として、理事として活躍した車いすバスケットボール。

宮本さんと車いすバスケットボールとの出会いは、1990年代半ばのこと。車いすマラソンのトレーニング法を教えてくれた友人の紹介からでした。専用の車いすは高価なので、さすがにレンタルで開始。「当時、安くても30万円はしましたからね。今でもタイヤが1本10万円とかしますから、とても道具から入ることはできませんでしたね(笑)」。
車いすバスケットボールは、障がい者スポーツの草分け的な種目で、パラリンピックの正式種目にも選ばれています。日本でも、1960年に紹介され、今では、コミックになったり、プロ選手が誕生したり、障がいのない人によるチームができたり、と話題のスポーツとなっています。宮本さんは、そんな車いすバスケットボールの選手として活躍するとともに、3年前まで“鳥取県車椅子バスケットボール協会”の理事を務めていました。

宮本さんは、3年前からふたりの友人とともに、新しい車いすバスケットボールチームを結成して活動しています。それは、“障がいのあるなしに関係なく楽しめる車いすバスケットボール”がテーマの活動です。国からの助成金(※)を受けて車いすやボール、ゴールなどをそろえ、学校などを訪問。無料で車いすバスケットボールの講習をしたり、新しいルールをつくってゲームを開催したりしました。また、ツインバスケットボールと呼ばれるフリースローサークル中央に1.2mの低いゴールを設ける新しいスタイルも導入。サークル内に入れる人を限定(障がいのある人や高齢の方、子どもなど)するオリジナルルールなどを考案して、障がいのあるなしに関わらず誰もが楽しめる車いすバスケットボールの普及に努めています。
同時に、3年前から車いすフリースロー大会を開催。これは、どんなボールを使ってもよく、ゴールも通常のものとツインバスケットボール用の低いものが選べるというルールです。2010年の第一回大会には50人が参加、第二回大会には100人以上がエントリーしました。第三回大会の今年は秋に開催。昨年以上の参加を予想しています。
障がい者スポーツは、障がいがあっても楽しめるように工夫されたスポーツです。それは、つまり、障がいのない人にとっても楽しめる、誰もが参加できるスポーツなのです。いわば、生涯にわたって楽しめるスポーツということもできるのではないでしょうか。新しいスタイルの車いすバスケットボールの普及活動は、まさに「障がいのあるなしに関わらず楽しめるスポーツを普及させたい」という宮本さんの思いを具現化した活動です。
※国から補助金を受けた独立行政法人福祉医療機構の「社会福祉振興助成金」。

ツインバスケットボールのゴール(1.2m)。低いけれど、なかなか入りません。

障がいの多様性を教えてくれた、精神障がい者ソフトバレーボール。

2007年3月、鳥取県の障がい者スポーツ指導員を務める宮本さんのもとに、市の障がい者スポーツセンターからメールが入りました。「鳥取市東部地区の精神障がい者ソフトバレーボールの指導員を募集している」という内容のものでした。「バレーボールの経験はなかったのですが、私自身も身体に障がいがあることもあり、多少なりとも気持ちが分かるのではと思い、バレーボールの経験がないことを伝えたうえで、応募することにしたんです」。
いざ、練習に参加してみて、“身体障がいと精神障がいがまったく異なるものである”と改めて気づかされたという宮本さん。参加者がすぐに疲れてしまうことにも驚かされました。中には準備運動が終わった時点で休憩が必要な人や、前半がんばると後半まったく動けなくなる人も。また、積極的にボールに触れる人がいるかと思えば、ひたすら逃げる人もいます。「初めて練習に参加した時は、どうしていいかわかりませんでした。そのような状況で、選手たちにどこまで自分が指導できるのか……。正直『今回だけで辞めよう』と思いましたね。職員の方から『監督、次回もよろしくお願いします!』と明るく挨拶されて思いとどまりましたけど(笑)」と当時を振り返る宮本さん。大量のバレーボールの本を読み、二回目以降の練習に臨みましたが、コミュニケーションがうまく取れない点も悩みの種。声をかけてもほとんど反応がなく、宮本さんの言葉がどこまで選手たちに届いているのかも分からない日々が続く中、精神保健センターに通い、精神障がいのある人たちとの接し方を学びながら監督を続けてきました。
同年9月の県大会をめざして週に一回の練習をこなし、いよいよ大会当日。結果はぼろぼろでした。かろうじて1勝はできたのですが、初めての大会で選手たちは緊張で足は震え、試合中に声もかけあえない状況でした。この大会での反省をもとに、宮本さんは「これからは、皆で声を出して楽しくやろう」と選手たちに呼びかけました。ところが、その後の練習で、「エイエイオー」と掛け声をかけたものの誰からも声が出ない。そこで「コミュニケーションがままならない選手たちの分も、自分がしっかり声を出していこう」と決意しました。また、サーブが入らなくても励まし、決してけなさないよう心がけ「とにかく褒めて伸ばすことを意識してきました」と宮本さん。また、付き合いが長くなるにつれ、選手たちのわずかな表情の違いから、感情の起伏がわかるようになり、試合で勝ったときや上達して喜ぶ姿を見て「ぼく自身も嬉しくなり、やりがいを感じるようになったんです」。その努力が報われて、2008年、2009年と二年連続で優勝することができました。
「でも、最近は決勝で負けることが多くて……」と宮本さん。「選手の入れ替わりが激しいんです。たくさんの人がソフトバレーボールを通じて症状が良くなっていくんです。積極性や協調性が備わってくるんですね。そうすると社会復帰する。それで、チームから離れていくんです。うれしいけれど、反面、仲間と別れるさみしさもありますね」。
身体と精神……障がいのカテゴリーは違うけれど、同じ人間。そういう思いがあるからこそ、5年以上の長期にわたって宮本さんは精神障がいソフトバレーボールチームの監督を続けているのではないでしょうか。今も地元の病院から送迎などの協力を得ながら、常時10人ほどの参加者とともに練習を続けているそうです。

ソフトバレーボールを通じて参加者の症状が良くなっていくのを見るのが楽しみです。

周囲の支えがあったからこそ、いまのぼくがいる。

職場の仲間と一緒に。
「ここまで、いろいろなスポーツ活動を続けてこられたのは、職場や家族の支えがあったからこそなんですよ」と宮本さん。毎週水曜日の午後は障がい者ソフトバレーボールの練習で会社を休み、土日もどちらかは障がい者バスケットボールの練習やイベント。「活動を続けてこれたのも、今の自分があるのも、周囲の皆さんのサポートがあったからこそ」と宮本さんは感謝の気持ちを忘れません。
そんな宮本さんが最近大切にしていることは、娘さんと「ふうせんバレーボール」に出かけること。娘さんは自閉症で、あまり外に出かけたがらないのだそうですが、ふうせんバレーボールが大好きで、その練習には参加したがるのだそうです。「できるだけ土日のどちらかは娘と一緒にいるようにしています」と宮本さん。宮本さん自身の経験や、これまでの障がい者スポーツを通じて出会った人たちのとの交流……。過去のすべての経験が、今の宮本さんを作りあげたのでしょう。
障がいのあるなしに関わらず障がい者スポーツに興味を持ってもらえるよう、また「障がい者スポーツを通じて障がい者に自信を取り戻してもらうために、みんなが気軽に障がい者スポーツに参加できる環境をつくりたい」、そんな思いを持ち続ける宮本さんの活動の輪はこれからも広がり続けるでしょう。

-編集後記-

底抜けに明るい笑顔、高らかに響く笑い声。宮本さんは、本当にパワフルな方でした。しかも、そのパワーを相手に注入してしまうほどの存在感がありました。一緒にお話しさせていただいているだけで、こちらまで元気にしてもらえるような……。
宮本さんにお話を伺っていると、「仲間をつくるのがうまいこと」「他人の長所を見つけるのがうまいこと」「がまん強いこと」など、人としてのやさしさの基準をたくさん見つけることができました。明るくお話ししてくださいましたが、きっと様々な場面を乗り越えてこられたからこそ、今の宮本さんがあるのだと思いました。
何事も臆することなくチャレンジし続けるそのパワーは、皆さんにも伝わったでしょうか。

娘さんと一緒に参加しているふうせんバレーボール。

宮本 聖史
-プロフィール-
宮本 聖史(みやもと さとし)
NTT西日本-中国勤務。鳥取県車いすバスケットボールチーム「Wheelers(ウィーラーズ)」所属。
1957年、鳥取県生まれ。19歳のときに骨肉腫を患い右足大腿部を切除。それ以来、義肢をつける生活をおくるようになる。
1977年にはじめたスキーをきっかけに、水泳、卓球、アーチェリー、バドミントン、柔道、自転車、車いすマラソン、車いすバスケットボールなど多彩なスポーツを経験する。車いすバスケットボールでは選手としてのみならず2009年まで鳥取県車椅子バスケットボール協会の理事も務める。また、2007年より、鳥取市東部地区の精神障がい者ソフトバレーチームの監督を務め、2008年より2年連続で県大会優勝へと導く。
現在は、車いすバスケットボールチーム「Wheelers」に所属し、障がいのない人たちとの車いすバスケットボールでの交流などを通じて、障がいのあるなしに関わらず楽しめるスポーツの普及に努めている。
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