1. ホーム
  2. どんな困難も笑顔で乗り越えていく頼れる兄貴 大代裕之さん インタビュー

どんな困難も笑顔で乗り越えていく頼れる兄貴 大代裕之さん インタビュー

“サッカーと支援と結婚と…。ほんとうの自立をめざして”どんな困難も笑顔で乗り越えていく頼れる兄貴 大代裕之さん インタビュー

あるときは障がいのある人の自立生活を支援する頼れる相談員。またあるときは日本の電動車椅子サッカーの発展に尽くすアスリート。そしてあるときは、かわいい妻に甘える子どものような夫。いろんな顔を持つ大代裕之さんの実態は、笑顔がまぶしい車いすのおじさんです。今回は、自立をキーワードに独自の生活を切り拓いてこられた大代さんの楽しいお話を存分にお伺いしました。

楽しい笑顔が、大代さんの魅力のひとつ。

ぼくにもできるんだから、あなたにもできる。

編集部:現在は、自立生活センターFlat・きたに勤めていらっしゃるんですね。
大代:はい、2000年、31歳でセンターの設立準備のときから参加しているので、かれこれ12年ほど携わっていますね。センターの特長は、障がいのある人への援助・介護派遣などのサポートを障がいのある人が中心となって実施していることです。そのような体制の中で、ぼくが担当しているのは相談支援。自立生活プログラムの推進や住居あっせん、車いす購入の相談などを通じて、障がいのある人の自立を支援しています。
ぼくはセンターの相談員を担当するにあたって、ある決心をしました。それは“ひとり暮らしをする”ということ。センターに就職して2年目のことでした。理由は、他の人に自立した生活を提案する者が、実際に自立していなければなんの説得力もないな、と思ったからです。自分自身で、実際にひとり暮らしを体験して、その体験を通じて感じたことや身につけたことを伝えてこそ、役立つ情報が提供できるのではないか、と考えての決意でした。
実は、ひとり暮らしを始める前は、“これで自由になれる”と思っていました。それまでは両親と3人暮らしだったので、大いに羽を伸ばして暮らせると思っていたんですね。ところがどっこい、来ていただく介護ヘルパーさんとの時間調整が大変なんです。ぼくは先天性の脳性まひで、手足がまひしています。掃除や洗濯、トイレ(小は自分でできますが、大は介護が必要です)の介護支援をお願いしなければなりません。これらをお願いするには1カ月前にシフト表を提出する必要があるのです。つまり1カ月先の予定が決まってしまっているのです。急に飲み会に誘っていただいてもなかなか対応できず涙を飲むことも多かったのです(笑)。

仕事の話になるとついつい力が入ります。

編集部:そんなひとり暮らしは、仕事にどう活かされていますか?
大代:とにかく、ぼくの経験の一つひとつが障がいのある人の自立生活のノウハウになるのがうれしいですね。賃貸住宅でのバリアフリー環境のつくり方だとか……。賃貸ではまだまだバリアフリーの環境が整っている物件はそう多くはありません。しかも、賃貸だと返却時に現状復帰させることが入居の条件となっていることが多いのです。簡単にコストをかけず、バリアフリーの環境をつくる方法などは、実際にひとり暮らしをしてみないとなかなか得ることはできません。より具体的に、より役立つアドバイスができるのは、ひとり暮らしの経験があるからこそと考えています。
これらの経験に基づいて、ぼくは相談に来られた人たちに、いつもこうアドバイスしています。「ぼくでもできるんだから、必ずあなたにもできますよ」って。

障がいのある人が自立されるとほんとうにうれしいですね。

編集部:この仕事には、どんなやりがいがありますか?
大代:実際に障がいのある人がひとり暮らしを始められるとうれしいですね。相談に来られる方のニーズを詳しくお伺いして、きめ細かなプランを立てて、仕事のことや住居のこと、関係する人たちとの調整、生活費などの金銭的な問題など、さまざまなハードルをクリアしていきながらひとり暮らしを実現するには、長い時間をかけ、多くの汗をかき、信頼関係を築いていく必要があります。早くて3年、通常は5年から6年の歳月が必要となる大事業です。これまでも、“あとは引っ越し……というところまで漕ぎついていたのに、土壇場でキャンセル”という事例が何度もありました。ぼくは12年間の経験の中で、何千人もの方々の相談を受けてきましたが、実際に一人暮らしを始められた人は10人ほどです。やはり、家族の方も含め、ひとり暮らしへの不安が払拭しきれないのでしょうか。
今のぼくがあるのは、ひとり暮らしを始めたからです。ひとり暮らしをすることで、ぼくの心の中に自立の志が育まれたのだと思います。だからこそ、ひとり暮らし、自立した生活を大切に考えています。これからも、ひとりでも多くの方が、自立生活をおくれるようにサポートしていきたいと思います。それには、自立して暮らすことへの不安を解消することが大切なのではないでしょうか。そのためにも、ぼく自身が充実した自立生活を過ごすことが必要だと思っています。楽しく毎日を過ごすことで、ぼく自身が良い事例になれるように努めていきたいものです。そして、「ぼくでもできるんだから、必ずあなたにもできますよ」という言葉が、より説得力を持つようにしたいものですね。

サッカーがなかったら、今のぼくはいません。

編集部:大代さんにとって電動車椅子サッカーとの出会いが大きな転機になったとか。
大代:出会いは、1993年のJリーグ発足のころになります。ぼくはガンバ大阪の超熱烈なサポーターで、アウェイの試合にも他のコアサポーターに介護してもらってよく出かけます。どのくらい熱いサポーターかというと、2008年5月に埼玉スタジアムで行われたガンバ大阪VS浦和レッズの試合で、両チームのサポーターがトラブルを起こしたとき、ぼくはスタジアムに居て、3時間以上にわたって待機していた、というくらいです。家の中もガンバグッズでいっぱいになっているほどなのです。
あるとき、知り合いから電動車椅子サッカーなるものがあることを教えてもらいました。これなら自分でもできる、そう思って大阪にある「大阪ローリングタートル」に入ることにしました。このチームは日本で最初にできた電動車椅子サッカーのチームです。以来、毎週、練習場所の大阪市長居障害者スポーツセンターに通う生活が始まりました。熱烈サポーターだけでなく熱心なプレーヤーとしてサッカーに関わるようになりました。あれから12年余りの歳月が過ぎましたが、あのとき電動車椅子サッカーに出会っていなければ、今のぼくはいなかったと思います。それほど、電動車椅子サッカーはぼくにとって大きな存在なのです。

編集部:サッカーに出会うまではどんな生活だったのですか。
大代:正直いうと引きこもっていました。高校3年生、18歳のとき、交差したまま硬直していた足をまっすぐにするために、鼠蹊部(そけいぶ)という左右の大腿部の付け根にある溝の内側にある三角形状の部分の手術を受けました。術後、21歳までリハビリを続け、その成果でつかまり立ちができるほどに回復しました。この手術は、ぼくにとって最初の転機となったのですが、なぜかその後、引きこもり生活に入ってしまったのです。今から思うと、大学受験に失敗したことが遠因だったのかもしれません。自分の部屋にこもってひたすらゲームをする毎日をおくっていました。ただ、決してグレていたわけではなかったので、両親に暴言を吐いたり、暴力を振るったりすることはありませんでした。おとなしくゲームの世界に浸っていたのです(笑)。
きっとサッカーに出会っていなかったら、未だに引きこもりの生活をおくっていて、ひとり暮らしはもちろん、結婚するなんてまったくなかったと思います。きっと、サッカーがぼくの自立を後押ししてくれたのでしょうね。ほんとうに感謝しています。そして、サッカーが電動車椅子サッカーへと導いてくれました。鼠蹊部の手術が第一の転機だとすると、電動車椅子サッカーとの出会いは第二の転機といえます。

チームメイトからもらった寄せ書きボールは大切な宝物。

編集部:電動車椅子サッカーの世界では大活躍されていると伺っています。
大代:大阪ローリングタートルには11年間在籍しました。始めは弱小チームだったのですが、チームメイトといっしょに切磋琢磨して強いチームに育てました。もうそろそろぼくの役割も終わったかな、と思い、35歳のとき、神戸にある兵庫パープルスネークスに移籍しました。ぼく自身も心機一転して電動車椅子サッカーに関わりたかったのです。このチームには6年間お世話になりました。
今は現役を引退していますが、ぼくが全盛期だったころは、日本代表候補に選ばれていました。電動車椅子サッカーにもワールドカップがあるんです。2007年には、日本をはじめとして、アメリカ、フランス、イングランド、デンマーク、ベルギー、ポルトガルが参加して日本でワールドカップが開催されました。ぼくは、そのときの代表候補だったのです。合宿や海外遠征もたくさんありました。イングランド、ポルトガル、フランス、アメリカ、韓国などに出かけて試合をしたのは、とてもいい思い出となっています。残念ながら最終選考で落ちて、ワールドカップ代表にはなれませんでしたが、貴重な経験をすることができました。
それと、当時ぼくは作業所に勤めていて、旅行の企画などを担当していましたが、代表候補に選ばれて、各地に遠征に出かけた経験を、この旅行企画の仕事に大いに役立たせることができました。そういった点でも電動車椅子サッカーで得た体験知は、ぼくの人生に大きな影響を与えてくれたといえるでしょうね。

編集部:現在は、奈良のチームで監督をされているのですね。
大代:これはいろいろな縁が重なって務めることになりました。ぼくが電動車椅子サッカーを始めたころ、奈良のチームにひと回り年下で小学5年生の重松弘樹君という優秀な選手がいました。彼とは、とても意気投合して、まるで兄弟のように仲良くしていました。代表候補の合宿や遠征でもとても仲良く過ごしたものでした。彼は、2007年の日本で開催されたワールドカップでエースを担ったのですが、とても残念なことに 2010年に亡くなってしまいました。以来、彼の所属していた奈良クラブ ビクトリーロードは、意気消沈してしまい精彩を欠いてしまいました。全国制覇の経験もあり、これまでたくさんの日本代表選手を輩出していたチームだったのに、なかなか勝てずに低迷していたのです。ぼくは、そのころ、兵庫パープルスネークスに所属していましたが、重松君との縁もあり、よく励ましに行っていました。「重松君のためにも皆でがんばろうよ」と声をかけたものでした。
あるとき、奈良クラブ ビクトリーロードの監督から、ぼくに監督にならないかとの打診がありました。この監督は、実は重松君のお父さんなのです。要請を受けたのは2011年4月のことでした。
いくら弱くなったとはいえ、一度は全国を制覇したチームです。その指揮を取るのは、とてもプレッシャーがかかることです。ぼくは、ずい分悩みました。でも、重松君との友情を考えると、ここはぼくが引き受けないとどうしようもない、と思えてきました。ぼくは一大決意をして、監督を引き受けることにしました。
実は、奈良クラブ ビクトリーロードの前監督の重松さんは、友人の重松君の父親であると同時に、ぼくをワールドカップの代表選手から外した張本人である日本代表チームの監督でもあったのです。そんな人が率いていたチームを預かるなんて、なんとも奇妙な縁だなぁ、と思いながら引き受けたのでした。
今年度は、関西予選は第一位で通過したのですが、全国大会で横浜のチームにPK戦で敗れベスト8で終わってしまいました。もっとも、この横浜のチームが優勝しましたから、結構、健闘したんですよ。ただ、重松君のことを考えると、いつか必ず優勝して全国制覇しなければ、と誓っています。このチームで再び全国制覇をして、彼の想いに応えたいと思っています。それが、今の最大の目標ですね。この目標達成が、ぼくの人生を大きく変えてくれた電動車椅子サッカーへの感謝の表現であり、ご恩返しだと考えています。
現在は、関西選抜チームの監督就任の要請を受けています。もう現役は引退してしまいましたが、これからは、これまでの経験を活かして縁の下の力持ちとして、電動車椅子サッカーの浸透、発展に役立っていきたいと願っています。

現在は、奈良クラブ ビクトリーロードの監督です。

支援事業とサッカーに出会えたから結婚できました。

編集部:大代さんは結婚3年目の新婚さんと聞いていますが……。
大代:ええ、ちょっと照れてしまう話題ですね。でも、照れながらあえて話しをするなら、ぼくは39歳のときに結婚しました。今、42歳ですから、もう3年になるんですね。これってもう新婚じゃないんでしょうか?まだまだ新鮮な気分でいるんですが(笑)。妻はひと回り年下で現在30歳です。現在、ぼくと同じ自立生活センターFlat・きたに勤務しています。
実は妻もぼくと同じ車いすの生活をおくっています。脊椎の未発達で歩くことができないのです。ぼくと違うところは、一人でも車いすへの乗降ができることです。そんなふたりですが、介護ヘルパーさんたちを交えて、楽しく笑いの絶えない家庭が築けているのではないか、と少し誇りにも思っています。

夫婦で出かけた韓国・済州島にて。

編集部:よかったらおふたりの馴れ初めをお聞かせ願えませんか。
大代:ぼくが自立生活センターFlat・きたに勤めていなかったら、きっとぼくらは出会わなかったと思います。各センターは介護ヘルパーさんの手配で情報交換するなど盛んに交流しています。そんな活動の中で、ぼくは吹田のセンターに勤める彼女と知り合い、そして交際を始めました。ところが、驚いたことに、うちの理事長が彼女をFlat・きたにヘッドハンティングしてきたのです。ぼくは焦りましたよ。だって、こっそりつきあっていた恋人がいきなり同僚になるんですから。うれしいという思いもありましたが、「えー、そんなん意識し過ぎて仕事にならへんやん」という気分でしたね。でも、この引っこ抜きがあったから、ぼくらは結婚できたのかもしれませんから、理事長にはとても感謝しています。
結婚してほんとうに良かったな、と思うことは、生活にリズムが生まれたことと、できないことをお互いに補って支え合うことができること。介護ヘルパーさんにお願いするのとは少し違うサポートが得られるのが魅力ですね。
引きこもりだったぼくが、サッカーに出会って外の世界に関心を持つようになり、電動車椅子サッカーを始めてアクティブに生きる道を発見することができました。この経験が、ぼくを障がいのある人への支援事業へと導いてくれたのではないか、と思います。そして、この支援事業に携わったからこそ、結婚することもできたのでしょう。見えない糸をたぐり寄せるように、ぼくの人生はここまで進んできました。縁なくしては語れない人生だと思います。

自立をキーワードに支援活動を充実させていきます。

編集部:最後に大代さんの将来の夢をお聞かせください。
大代:今、ぼくの人生を振り返ってみると、常に「自立したい」と考えていたんじゃないかな、と思います。ガンバ大阪のサポーターになったこと、電動車椅子サッカーを始めたこと、無給にも関わらず自立生活センターFlat・きたの立ち上げに参加したこと、ひとり暮らしをはじめたこと、そして結婚したこと。いずれの行為にも「自立」というキーワードが埋め込まれていたように感じています。そして、その背景には、ぼくの両親をはじめ、ぼくに関わってくれている人たちの温かい支援があるのです。「障がいがあるのだから、そんなことあなたにはムリ」なんてことをいう人はいませんでした。誰もがぼくの背中をそっと後押ししてくれるようなやさしさに満ちあふれた人たちでした。
ぼくは、これからもぼくを支えてくれている人たちの温かな気持ちに感謝しながら、その気持ちを相談に来られる人たちに引き渡すことができるような相談員になりたいと思います。いわば「温もりの持ち回り」とでもいうのでしょうか、そんな「やさしさのバトン」を次から次へと繋いでいくような活動を続けていきたいと思っています。そして、ひとりでも多くの障がいのある人が、自立した生活をおくれるようにサポートしていきたいものです。

一人でも多くの障がいのある人に自立生活をはじめてほしい。

-編集後記-

屈託のない笑顔がとても素敵な大代裕之さん。先天性の脳性まひだったので、手足がまひしているのは当たり前のことで、自分自身に劣等感を持つことはなかったとおっしゃいます。そのピュアさが、高いハードルが立ちふさがったときでも、笑顔で跳び越えてしまうパワーを生みだす源泉となっているのかもしれません。
障がいのある人への支援活動と電動車椅子サッカーという二足のわらじをはいている自分はフラフラとしているように思われているのではないか、と少し不安そうな表情を浮かべられていましたが、これらふたつの活動は、大代さんの人生を前に進めるための両輪になっているのではないか、と感じています。そして、人生のエンジンにあたるのは、結婚生活なのではないか……と。
どんな苦難も笑顔で吹き飛ばしてしまうような頼れる兄貴。そんな大代さんは、今日も前のめりで相談に来られた人の話に聴き入り、そして電動車椅子サッカーの選手たちを叱咤激励しているのです。その幸福化パワーは、きっと相手にビンビンと伝わっていることでしょう。
大代 裕之
-プロフィール-
大代 裕之(おおしろ ひろゆき)
「自立生活センターFlat・きた」事務局長、関西ブロック電動車椅子サッカー協会理事。
1969年12月4日、大阪市生まれ。先天性脳性まひにより手足にまひがあり、電動車いすの生活をおくる。
小・中・高と養護学校(現・特別支援学校)で学ぶ。高校3年生のときに鼠蹊部(そけいぶ:左右の大腿部の付け根にある溝の内側にある三角形状の部分)の手術を受け、21歳まで3年間リハビリを行い、つかまり立ちができるようになる。26歳で作業所に入所し、旅行企画の仕事に携わる。このころNHK教育(現・Eテレ)の番組『きらっといきる』の第一回放送に出演する。31歳で「自立生活センターFlat・きた」の立ち上げに参加し、現在に至る。39歳のときに結婚。夫婦ふたり水入らずで、3年目の新婚生活を満喫している。電動車椅子サッカーとの出会いは23歳の時。大阪ローリングタートルというチームを振り出しに、神戸の兵庫パープルスネークスを経て、現在は奈良クラブ ビクトリーロードの監督としてチームを引っ張っている。
印刷用ページを表示する

NTT西日本通信サービスの使命

バックナンバー

*クリックまたは、エンターキーによりメニューが表示されます