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重度障がいのある娘とともに育つ母 森田登代子さん インタビュー

“娘が、私に人生を教えてくれた”重度障がいのある娘とともに育つ母 森田登代子さん インタビュー

前回ご登場いただいた森田かずよさんの母親であり、『明日へひょうひょう』の著者である森田登代子さん。近世の庶民生活の研究で博士号を取得し大学で教鞭を取る一方で、ダンススクールの経営者という多彩な活動をされています。そのバイタリティは、“娘といっしょに生きてきた”ことで得られた、とおっしゃいます。前回と併せてご覧いただいて、親子のあり方を考える一助にしていただければ、と願っております。

娘をとおして数々のことを学びました。

いっそ死んでほしい、と願ったこともあった。

編集部:かずよさんが生まれたときは、ずい分と悩まれたようですね。
森田:1977年の8月14日の早朝、突然破水しました。子宮筋腫が見つかっていて帝王切開で生む事になっていたので、すぐに手術になりました。生まれてきた女の子は泣きませんでした。出産後、夫が泣きながらベッドにやってきました。「赤ん坊はすぐ死ぬから、すぐ死ぬから」と言いながら。しばらくの間、私は事態を理解することができないまま過ごしました。退院後、しばらくして娘の障がいのすべてを知ることになりました。からだがガタガタ震え、高いところからすーっと吸いこまれるように落ちていくような感覚を覚えました。声にならないうめき声が出てましたが、涙は出ませんでした。あまりにもショックが大きすぎたのでしょうね。まさに奈落の底に落とされたような気分でした。
お医者さんからは「この子は、すぐに死ぬでしょう」と言われていたので、せめて生まれた日くらいは憶えておけるようにと、1と4で「かずよ」という名前をつけました。右手の指は4本、伸びきらない右肘、右の肋骨は3本が欠損し、脊柱が立体的で複雑な曲線を描く先天性側湾症という先天性奇形とともに、二分脊椎症なので首に近い背骨にはザクロのようにぽっかり開いた髄膜瘤を持って生まれてきました。お医者さんは「自宅のケアでは病気に感染して死ぬ」と忠告してくれましたが、私たちは「どうせ死ぬんだったら家に連れて帰ろう」と考え、退院させることにしました。すると、退院後しばらくして、娘の髄膜瘤の傷がふさがっていきました。どうやら娘の生命力が勝ったようでした。

娘との日々を重ねることで、私は母親になりました。

編集部:それは、なによりのことでしたね。
森田:いえ、逆に私は困惑しました。というのも、死ぬはずの娘は、重度の障がいがあるまま、私の手に委ねられてしまったからです。どうやって育てていけばいいのだろう?治療にはどれだけの費用と手間がかかるのだろう?障がいについて何も知らなかったから不安は増すばかりで、私は途方にくれました。「涙が涸れるまで……」という言い回しがありますが、そんなのウソだと思いました。泣いても、泣いても、私の涙は涸れることなく流れ続けました。
長い間「どうして障がいのある子どもを育てなければならないのか」と悲嘆にくれて毎日を過ごしていました。障がいのない子どもたちを見ていると涙があふれてしまいます。ひどい話ですが、自然死で娘が死ぬ方法はないか、と考えたこともありました。娘を連れて、「どうかこの子が死にますように」と神社へ願かけに行ったこともありました。

母性は本能ではなく、後から育てていくもの。

家族の思いやりに包まれて娘はすくすくと育ちました。

編集部:どんなことで森田さんは救われたのですか?
森田:たくさんの人たちが私たちを支えてくださったんだと思います。今もそうですが……。娘が幼いころ通院していた重度障がいのある子どもたち専門の病院の脳外科のお医者さんから「ここには植物状態に近い重度の障がいを持った子どもも入院しています。親は殺してくれと言いますが、医者は子どもが少しでもよくなるようにと治療するのですよ」という言葉をいただきました。この言葉を聴いて、娘とどう向き合って生きていけばいいのか、どろどろの状態で悩んでいた私の胸にあたたかいものが打ち寄せてあふれました。また、この病院で、微笑みながら穏やかに語りかけてくれた女性もいました。「私の5歳の息子には先天性の脳障害があり、ここに入院しています。私の夫は交通事故で亡くなりました。だから、私が亡くなったら、息子がこの病院にある障がい者施設で暮らせるように手続きしてあるの」と。彼女はこれまで、どれほどの葛藤や慟哭を経験されてきたことでしょう。それらを乗り越え、悟りを得た笑顔と声は、私の索莫とした心をやわらかくほぐしてくれました。そして、何よりも家族の存在が大きかったと思います。生まれたばかりの障がいのある子どもと夫婦だけではこころもとないという祖母の鶴の一声で、夫の実家での同居がはじまりました。夫の祖父母、両親、夫の妹と弟という4世代、9人家族での生活でした。同居という束縛はあるものの、家族の思いやりの中で娘はすくすくと育っていきました。
胎動を感じ、身を分かつ苦しみを味わい、母乳を与えることで母親としての感情が体験的に芽生えるのではないかと言われていますが、私はどれも体験していません。だから娘が生まれても母親としての感情は持てないままでした。しかし、娘と日々を重ねて、さまざまな悩みや葛藤を超えていく中で、それらが通過儀礼(イニシエーション)となり、私は母親になっていったのだと思います。母性は本能ではなく、育てていくもの。子どもとともに過ごす中から、ゆっくり培われ、ふっくら醸し出されて、はじめてあふれてくる感情なのだということを学びました。「この前、娘を死なせてくださいとお願いにきましたが、あれ、撤回します。どうか娘を生かしてください。勝手と思われるでしょうが、どうかお願いします」。そんな願かけをしに神社へ行ったころ、私は母親になれたのではないか、と思っています。

ときに善意が人の尊厳を傷つけることもある。

編集部:これまで、たくさんの励ましの言葉が寄せられたことでしょうね。
森田:いろんな方から温かいお言葉をたくさんいただきました。ただ、「おたくの娘さんは障がいにめげずにがんばっていますね」と、声をかけていただくことがあります。「かずちゃんは障がいに克って、勉強できていますね」とほめられたこともあります。これらの言葉をいただいたときに、私はある疑問を感じてしまいます。それは、どちらも“障がいがある”ということを特別扱いしているように思われるからです。
今の社会では、“障がいのある人”と“障がいのない人”を別々のグループのようにとらえる傾向があるようです。“できる人”と“できない人”という相対立する人間関係としてとらえられているようにも思われます。だから、「障がいにめげず」とか「障がいに克って」という言葉には、それを発した人たちの“障がいのある人は、できない人”という思い込み、つまり固定観念のようなものを感じてしまうのです。
私たちは、“障がいがあること”を特別なことと考えず、生きてきました。ありのままの自分たちを受け入れてきました。私たち母娘は、障がいがあるからといって、それを卑下することもなく、おもねることもなく、ひょうひょうと歩んできました。そうしなければ、私たちは生きてこられなかったからです。

編集部:多くの人たちが、善意で行っているんでしょうけどね……。
森田:娘が小学校に入学する前のことでした。近くの小学校は、まだ一人も障がいのある生徒を入学させたことがありませんでした。そこで、娘といっしょに校長先生に会いに行きました。柔和な印象の校長先生は娘にいくつか質問をされました。「歩いてみてください」。娘はヒョコ、ヒョコンと揺れながら校長室をゆっくり2周しました。「指を1本ずつ折ってください」。娘は左手5本、右手4本の指を順番に折って数えました。「これなら大丈夫ですね」。校長先生のこの言葉を聞いて、これでふつうの小学校に入学できる、と私はほっとしました。でも、後から、これらの行為がどういうことか考えてみると、とんでもないことをしてしまった、と後悔するばかりです。校長先生は好意でしてくださったことでしょう。私は、その好意に甘えて、娘をさらしものにしてしまったのです。私は、ふつうの小学校に入学するという目標のために、娘の尊厳を傷つけてしまったのです。これは、今、思い出してもつらい出来事でした。この一件で、たとえ善意や好意であっても、結果的に子どもの尊厳を傷つけることがあることを知りました。それ以来、娘の尊厳を守ることが私の大切な課題のひとつになったのです。

娘の尊厳を守ることは、母親の大切な役割。

私は、決して娘の代わりをすることはできない。

編集部:かずよさんには、どんなことを伝えてこられましたか。
森田:「森田かずよは森田かずよであって、森田かずよ以外の何ものでもない」。禅問答のようですが、これまで私はこの考えを娘に伝え続けてきました。2本の線路が1本に重なることがないのと同じで、障がいのない母親である私が、重度の障がいのある娘の苦しみや悲しみを100%理解することはできないと思います。また、母親には子どもをコントロールしようという意識が働くことがあります。子どもを、着せ替え人形のごとく“自分の所有物”としてとらえてしまうことがあるのです。そこで、私と娘は異なる人格なんだ、ということを前提に考えることにしました。障がいがあるのは娘であって、私ではない。私の娘は、私ではなく、森田かずよだ。私が娘の代わりをすることはできない。そこで行きついた結論が、「私は絶対に娘にはなれない。娘とは運命共同体であっても、一心同体ではない」ということでした。この考えから、先の禅問答のような言葉が生まれてきました。この言葉を見つけたことで、私は娘にアイデンティティーの大切さを伝えることができたと思っています。

はじめての海外旅行は、ハプニングいっぱいの珍道中でした(パリ)。

編集部:かずよさんとは、どんな母娘関係ですか?
森田:私は、自分で考え、自分で動くことを信条にしてきました。娘に対して、しっかり向き合い、決して逃げ出さず、そらさないようにしてきました。私は、娘に対してどんなささいなことでも嘘をつきたくありません。また、ごまかしや気休めを言うこともしませんでした。どんなことにも、ちゃんとぶつかって答えを出すようにしてきたのです。また、私は娘に過剰な期待をしません。そして、過剰な負担もかけません。でも、彼女の夢は否定しません。だから、娘は私がいつも等身大で向き合う、嘘をつかない母親であることを確信してくれています。
ときに娘は、「私たちは最強の親子なのよ!」と言ってくれます。私が迷っているとき、あるいはグチっぽくなったとき、娘は的を得た“超”冷静な答えをくれます。それは、決して私を慰めるような言葉ではなく、妙に冷たいのですが、「なるほど」と感心してしまう意見なのです。さながらキャッチボールで、ボールがスポッと入ったときの心地よさを感じます。そんなときに娘は、「私たちは最強の親子なのよ!」と言うのです。こんな母娘関係ですから、他の人が見ていると、毒舌家族に感じられるかもしれませんね。この様子を見て「二卵生親子だね」とおっしゃる方もいらっしゃいます。そのベースにあるのは、お互いにアイデンティティーを認めあっている、尊重しあっているということなのでしょうね。
海外旅行もよく二人で出かけました。最初は娘が小学校4年生の1987年のこと。オーストラリアが障がい者向きだよ、というアドバイスもあったのですが、娘の希望でパリに行きました。以来、ドイツ、韓国、カナダなど、いろんな国を貧乏旅行しました。海外旅行の体験の中で、娘は好奇心おもむくままのしなやかな行動力と自ら工夫して社会に順応するたくましさを得たのかもしれません。

娘と私は、まるで「二人羽織」の関係。

編集部:かずよさんの生き方に影響を受けたことはありますか?
森田:娘は「だめもと(だめでもともと)」と言いながら、何度も演劇のオーディションに応募したり、新しい企画を立てて演劇にチャレンジしたり、あきらめることをおぼえず、スピードをゆるめることなく前進しています。ただ、その姿は、決してがむしゃらではなく、すいすいと泳ぐかの如くなのです。
私は学生時代に修士課程まで進んでいたのですが、ふとしたきっかけで40歳を過ぎてから博士課程に入学することになりました。専攻は庶民生活文化史です。本を読む楽しみ、近世古文書を読み解く喜び、パソコンに向かって論文を書く充実感に満たされながら、孤独のなかでのたうち回って論文を仕上げ、家政学博士の学位を取得しました。団塊の世代ゆえ、若い人と比べて学習スピードでは劣りますが、持久力では勝っているようです。粘り強くあたっていれば道が開けることを実感しました。
私は元来、好奇心の強い人でした。その好奇心に娘の生き方が火をつけたのかもしれません。博士号取得にこりず、ますます私の学習熱は高まっています。国際日本文化研究センターの共同研究員、チベット文化圏の歴史と文化の研究、大学の講師……。年を重ねるほどに知的好奇心は旺盛になってくるようです。後発組のおばさんは、“一丁加味”をモットーに研究を進めていきたいと願っています。
そして、この好奇心は、ついに私をダンススクール「ピースポット・ワンフォー」を主宰させることになったのです。2004年12月のことでした。きっかけは娘との会話でした。歩くのさえままならない重度の障がいを持つ娘が、ダンスや演劇といった身体表現の世界に入り、私に対して熱心にダンスや演劇の話を伝える。私にはチンプンカンプンなのだけれど、その楽しさは分かりました。「ならば、自分たちでダンススクールを立ち上げよう」ということで、はじまったのです。さすがに、これには娘もびっくりしたようでした。しかし、素人の私にさまざまなアドバイスを与えてくれ、広いネットワークからいろいろな人を紹介してくれ、サポートしてくれました。それがあったからこそ、今があるのです。
私たち母娘を“二人羽織”と評される人がいます。羽織を着ているように見えるのは私ですが、袖口から出ているのは娘の手で、彼女は羽織の中に隠れていて、背後から母親に指示を出しているのだ、というのです。まさに的を得た発言だと思いました。振りかえってみると、私の人生のお手本は、実は彼女の人生だったと言えそうなのです。

自著の江戸時代の庶民生活を探求した研究書と育児体験書。

娘の人生は、私の人生のお手本。

コレクションしているアンティーク・オルゴールの前で。

編集部:かずよさんの生き方に影響を受けたことはありますか?
森田:“宝子思想”という考えがあります。“障がいのある子は宝を持って生まれてくる”というものです。障がいのある子を隔離するのではなく、家族や親類の人たちみんなで世話をすることが、その家の繁栄につながるという考えです。私にとって、娘はまさに“宝子” でした。娘が生まれたときは、重度障がいのある子を産んだというだけで“絶対的な敗者”意識にさいなまれていましたが、いっしょに生きていくなかで、そういう思い込みは少しずつ溶けていき、いつしか「得したんだ」という気持ちに変わっていきました。大げさかもしれませんが、私の人生に幅や深みというものがあるとするなら、それは娘のおかげです。重度の障がいを持つ娘を育ててきたことは、実は、私が娘に育てられてきたということなのだと思っています。
私は先に書いた尊厳とアイデンティティーとともに、“畏敬の念” を娘に伝えてきました。私は先にも言いましたが、娘が生まれたとき彼女の死を願いました。にもかかわらず、3歳、就学前、中学入学前、20歳といった人生の節目を超えるのが難しいといわれながらも彼女は生きました。もし、生存を願って髄膜瘤を切除していたら、今とは違う人生になっていたでしょう。このような出来事ひとつひとつに奇跡を感じずにはいられません。その奇跡を信じる心が、畏敬の念につながると思うのです。
私は、娘をとおして数々のことを学びました。障がいのある人や障がいのある子を持った母親の哀しみ、アイデンティティーの意味、家族のあり方、介護、苦しみや葛藤、畏敬の念、尊厳などを考える機会をいただきました。それらを思い返してみると、生きていることのすばらしさを感じずにはいられません。娘とともに生きることで、私は生きる楽しさ、つまり“生きる勢い”というものを見つけることができました。娘とは、今、「前だけを見ていこう」と決めて日々を過ごしています。過去に引きずられることなく、これから先の可能性を信じて生きていこうということです。次々と新しいことにチャレンジしていきたいとも思っています。そして、これからも、ひょうひょうと生きることの意味をたくさんの方々に伝えていきたいと考えています。ありがとうございました。

-編集後記-

森田登代子さんは、まさにマシンガントークという表現がぴったりの元気なお母さんでした。きっと、大学の教壇に立たれているときも、言葉の連射で学生たちをぐいぐいと引っ張っていらっしゃるんでしょうね。お話していて常に感じた、いわゆる通念や固定観念にとらわれないニュートラルで柔軟な視点は、やはり学者というポジションから生まれているのでしょうか。「王様は裸だ」と看破した少年が思い浮かんできました。妻、母、学者、経営者……。一人でいったい何役をこなしていらっしゃるんだろうというくらい、活動範囲が広く、そのバイタリティたるや、若者もタジタジという感じです。このパワーが娘のかずよさんに伝わり、かずよさんのパワーをまた森田さんが受け止めて、フィードバックの相乗効果でお二人ともがパワーアップしていく。そんな印象を受けました。“二卵生親子”。まさに言い得て妙です。
森田 登代子
-プロフィール-
森田 登代子(もりた とよこ)
「NPO法人ピースポット・ワンフォー」主宰、「なにわ創生塾」主宰、桃山学院大学非常勤講師、国際日本文化研究センター共同研究員。家政学博士、庶民生活文化史専攻。著書・論文に『近世商家の儀礼と贈答』(岩田書院)、「近世民衆、天皇即位式拝見」『日本研究第32集』所収(国際日本文化研究センター)、「現代社会のシンボル」『コミュニケーション学入門』所収、「チベット仏教寺院に於ける文様東漸の一側面」(民族藝術学会学会誌、2010)、「西ヒマラヤ、ピューリッツ祭りについて」(民族藝術学会誌)、『明日へひょうひょう』(向陽書房)、『はじけてダンス』(小学館)など。
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