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第11回北九州&アジア洋舞コンクール第1位 森田かずよさん インタビュー

“自分にしかできないこと、きっとある”第11回北九州&アジア洋舞コンクール第1位 森田かずよさんインタビュー

プロのダンサーであり役者である森田かずよさん。二分脊椎症・先天性奇形・側湾症という重度の障がいを持って生まれてきた彼女は、これらの障がいをハンディキャップとして捉えるのではなく、障がいのあるからだで、自分らしく何が表現できるのか、何を伝えることができるのかを真剣に追求しています。今回は、森田さんのひょうひょうとした自然な生き方をご紹介します。

興味あるものに対しては、軽いフットワークで。

洋舞コンクール初挑戦で第一位の快挙を達成。

コンクール第1位の金メダルを手に最高の笑顔!

編集部:第11回北九州&アジア洋舞コンクールのD部門バリアフリー チャレンジャー賞(第1位)受賞おめでとうございます。初挑戦での快挙ですね。
森田:ありがとうございます。これまで、こういったコンクールには、あまり縁がなかったので、とてもうれしいです。というのも、バレエなど洋舞のコンクールって国内外にたくさんあるんですけど、障がい者部門を設けている大会って、たぶんここくらいで……。隔年で開催されているこのコンクールがあることを知ったのは1年半ほど前のことで、インターネットでいろいろ調べてみたんですが、前回と前々回の第1位は台湾の人だったことのほかは、ほとんど詳しいことがよくわからなくて……。でも、わからないからこそ、よけいに「どんな大会なんだろう???」と興味が湧いてきて、どうしても出てみたくなったんです。そこで、いつものように、何も考えず、単身で参加していました。自信なんて全然なかったし、さすがに不安でいっぱいになったりしたけど、本当に出てよかったと思っています。

編集部:今回はどんな曲を踊られたんですか?
森田:今回も振付は自分で考えて、踊る曲も自分で決めて、エントリー書も自分で書きました。出場することも、親しい人にしか話しませんでしたし、話せませんでした。作品は、数年前に作った、ソロの処女作「享受-ウケトメル-」を選びました。ただ、曲も振りつけもリニューアルしましたが……。自分が「障がい」をどう受け止めるのか、をテーマに2分30秒のダンスをつくりました。「障がいのある自分のからだ」に悩んだりしたときもあったけど、自分のからだですから、最終的にそれは乗り越えるものでもなく、妥協したり、慣れていったり、そこから創意工夫していったり、あるいはちょっとした自分だけの能力を発見したり、それが自信になったり……。だから、私は、自分のからだを愛し、今のこの姿に感謝する、そんな想いを込めて踊りました。
編集部:実際のコンクールの様子はどうだったんですか?
森田:大会の前日8月20日は、伊丹で24時間テレビのチャリティーイベントに出演させていただいていて、フラを新曲を含めて4曲踊らせてもらって、そのまま会場のある福岡へ向かいました。初めての九州新幹線「さくら」に乗って前乗りしたので、テンションはもうアゲアゲでした(笑)。
大会当日の8月21日は、朝から大雨で、会場に着いたときには、ズブ濡れでした。到着してから参加者の内訳を確かめると私を含めて、バリアフリー部門には5組がエントリーしていました。東日本大震災の影響か、海外からの参加はありませんでした。
本戦45分前から舞台の上でのリハーサル時間が設けられていたんですが、私の順番は5組中最後。他の組は団体なので結構時間がかかってズレこみました。いよいよ私の番になって、センターの位置決めをして、音を流してもらって1回踊って袖に戻ったら、本戦がはじまってしまいました。あ……あれ?……あれれ?メイクを直す間もなく、そのまま舞台に上って踊りきりました。キメたいところでキメることができず、ちょっと後悔が残りました。
結果発表まで約40分。ずっと楽屋にいたんですが、とても長く感じました。結果は放送で流れてきました。「受賞者は直ちに舞台袖まできてください」。楽屋から舞台袖まで走りました。その間、いろんな人から「おめでとう」と言っていただき、涙が出そうになりました。すぐに表彰式になり、それが終わると「グローリアス公演」という入賞者のみの公演に。それにはトップバッターで踊らせていただきました。すごく気持ちよかったです!

自分のからだそのもので表現したい。

編集部:森田さんはいつごろからパフォーマンスに興味を持たれたのですか?
森田:小さいころから歌や踊りは大好きでした。小学校5年生のときに母にバレエシューズを買ってほしいとせがんだことがあります。母は薄いピンク色のサテン地の華奢なバレエシューズを買ってくれました。私はうれしくてポーズを決めたものでした。高校生になって「タカラヅカ」に出会いました。タカラヅカのステージを観たときに、演じることで輝く人ってすごいなぁと思いました。スターに憧れて、純粋にダンスや演劇をやってみたいと思いました。
大学は、演劇がしたくて芸術系の大学を志望していたのですが、結局、私立大学の文系の学部に進学することになりました。もちろん、すぐに「求Q舎」という劇団名の演劇部に入部しました。
大学に入学してから、演劇と並行して、バレエのレッスンをはじめました。はじめてバレエシューズをはいた小学校5年生のときの感動が忘れられなかったのです。そのあと、ジャズダンス、タップ、宝生流などの仕舞や謡、狂言、車いすダンス、コンテンポラリーダンスなど、様々なジャンルのパフォーマンスを経験してきました。
一応、大学卒業に向けて就職活動はしたんですが、結局、パフォーマンスにかける情熱が冷めやらず、奈良にある「夢歩行虚構団」という劇団に入りました。2000年のことです。大学で身につけたパソコンの技能を活かして、パソコン教室の講師をしたり、英会話の教師をしたりしながら、2008年まで、この劇団でパフォーマンスを続けました。
それから独立してフリーに。現在は、自らの表現活動を行いながら、ダンススタジオ「Performance For All People.CONVEY」を主宰しています。1年に1度は自主プロジェクトの公演を行っているんですよ。おかげさまで「CONVEY」での公演は今年で4回を数えました。

第4回CONVEY PROJECT「息吹-ibuki-」の公演チラシ

編集部:役者とダンサーと2つの方法で表現活動をされているわけですね。
森田:私の中では、役者とダンサーは同列のつもりなんですけど、実は、「ダンスをしたい」ということがなかなか言い出せなかったんです。それは、自分のからだに対する意識の問題だと思うのですが……。演劇に関してのハードルはあまり高く感じなかったんですが、ダンスに対するハードルは高くて、厳しいんじゃないか、と思い込んでいたんでしょうね。それが吹っ切れたのはコンテンポラリーダンスを知ってからかもしれません。
ジャズダンスやバレエでは、ある程度の「型」があるので、私にとっては、障がいのない人と比較しながら自分のからだを意識することになってしまいます。一方、コンテンポラリーダンスは、障がいのあるなしに関わらず、このからだを基本に表現を行うので、より開放的に踊ることができるのです。つまり、自分のからだでできるように踊ればよいのです。
コンテンポラリーダンスと出会って、私は自分の作品をつくりはじめました。自分のからだを使って踊ることで、何を伝えるのか、表現するのか……、それとも今ここにあるからだを見せるのか、あるいは何を見せるのか、ある空間で何ができるのか……。それは、私が踊ることをはじめてから、ずっと思い続けてきたことでした。コンテンポラリーダンスをはじめて、やっと「自分のからだで表現すること」の意味が見えてきたように思います。いや、意味を追求することが可能になったのでしょうね。今は、とことん「自分のからだで表現すること」にこだわりたいと考えています。

コンテンポラリーダンスでのはじめてのソロ演技。

【動画はこちら】

コンテンポラリーダンスでのはじめてのソロ演技。

運命共同体の母と一緒に生きる。

たくさんの偶然や人の助けがあって、今がある。

編集部:森田さんには、具体的にどんな障がいがあるのですか。
森田:私が生まれて半年後にもらった一種一級の障害者手帳には、「体幹及び四肢の先天的奇形、体幹の機能障害により座位不能」と書かれています。具体的にはどんな状態かというと、母の書いた手記『明日へひょうひょう』(向陽書房)によればこうなります。 
《ムスメは重度障害児として、障害をいっぱい背負ってこの世に生まれてきた。
先天性奇形と二分脊椎症が重なっていた。わたしのお腹からでてきたときには、すでに脊髄に髄膜瘤があり、右の肋骨が三本なかった。先天性側湾、右の指四本、右足脛骨欠損……と、もう数えきれないぐらいの、聞いてもわからない障害の名前がついていた。》
《右手の指が四本(右手第一指欠損)で、右肘は伸びきらない。右の肋骨が三本なく(右胸部肋骨欠損)、側湾は、いわゆる先天性側湾症。その側湾もたんに「くの字」に曲がっているのではなく、立体的で複雑な曲線を描く。背骨がねじれた状態、つまり全身像は三次元的な「くの字」型である。(中略)
脊椎髄膜瘤の手術をしていないので、背中に髄膜瘤が残る。右足の膝下の太いほうの骨がない(右足脛骨欠損)。現在は、右足に曲がらない義足をつけている。右足が地面についたときのショックは膝ではなく、全身で受けとめることになり、ヒョコン、ヒョコン、左右にゆれた歩行になる。
ほかに尾てい骨にある仙骨が欠損。そのうえ二分脊椎の障害である失禁の障害(=心因性膀胱)、脊椎空洞症、アーノルドキアリの障害もある(小脳に延髄が滑りこみやすいという奇形)。側湾がねじれているので、彼女の右脇のもとから骨盤までの幅はわたしの手の五本指分の幅しかない。》
ちなみに二分脊椎症とは、本来は脊椎の中に収まるはずの脊髄が飛び出してしまう症状のことです。私が生まれてすぐに母は医師から「寿命は長くありません。たぶん、すぐに……」と宣告されたそうです。しかし、私の生命力は医師の宣告に勝ちました。母は私をどう育てていけばよいのかわからず、「早く死んでほしい」と願ったこともあると手記に書いています。すぐに死ぬと思っていた子が生き続け、寝たきりになるだろうと諦めていたのが保育園で歩けるようになり、そんな重度の障がいのある子が小学生になり、中学、高校と進み、大学まで行き、ついには役者&ダンサーとして生きている……。これまでのたくさんの偶然やいろんな人の助けによって今があるのだと思っています。

編集部:森田さん自身は、いつごろからご自身の障がいを意識するようになったのですか?
森田:実をいうと、あまり意識してこなかったんです。保育園も小学校も障がいのない人たちといっしょのクラスでしたし、中学校と高校は私立の女子校に通いました。からだの違いについての認識はありましたが、障がいがあるという意識はあまりありませんでした。3歳から自分で歩いていますが、もともと「自分でしたい」という思いが強いんでしょうね。今でも、私は好奇心の赴くままに行動しがちですが……(笑)
母からよく聞かされたのは、「私たちは、運命共同体だけれど一心同体ではない」ということ。さらに、「わたしはわたし、あなたはあなた。たとえ母親であっても、わたしはあなたに代わることは、絶対にできません」、「あなたとわたしは別々の人間です。わたしは母親だけど健常者です。わたしは障害児を持った母親の悲しみや苦しみはわかるけど、障害を持っているあなた自身の苦しみや悲しみはわからないとおもう。ふたりの個性はまったく個別であることをおたがい認めあった上で、あなたとわたしの生活があるとおもう。それがアイデンティティというものよ」ということも聞かされました。これらの言葉をもらって、私は、「すべての障がいを受け入れること」を知ったのだと思います。そして、障がいのあるなしに関わらず「一人の人間である」ということに誇りを持てるようになったのだと思っています。そういう点で、運命共同体である母には、とても感謝しています。

母といっしょに(『明日へひょうひょう』の表紙写真・2002年)

「つなぐ」「わたす」を意識して活動していきたい。

いつまでもダンスを続けられるようなからだを保ちたい。

編集部:これからは、どんな活動をしていきたいとお考えですか?
森田:基本的には、“幅のあるからだ”をつくっていきたいですね。それは、筋力や体力、向上心などを高めて、表現力を豊かにするということなんですが。25歳のときにできたことが34歳になってできなくなった。逆に、25歳でできなかったことが今できる。だんだんと自分のからだのことがわかってきたんです。そこで思いました。自分にしか演じられない役やこのからだでしか表現できないことが、必ずあるはずだ、と。それは、決して障がいのない人と自分を比べるのではなく、自分自身をしっかり見つめて、私にしかできないことが何なのかを探求することだと思うのです。そういう意味で、“幅のあるからだ”づくりに向かって進んでいきたいと考えています。
ダンスでは、30分から40分の本格的な作品をつくっていきたいですね。本格的な作品が踊れるように、昨年から車いすを使うようになりました。最近、肺活量が低下してきたんです。息を吸うことはできるんだけれど、吐ききることができないんです。ダンスを続けるためにも、ダンス以外での負担を減らしたいと考えたんです。ちょっと運動不足になりますが……(笑)。でも、体力をダンスに回して、良いパフォーマンスをし続けたいですね。
それと、いつか障がい者によるカンパニーを創りたいという夢があります。。障がいとひと口でいっても、知的なのか身体なのか、精神なのかで、まったく異なります。身体にしても部位によって、様々な状況が生じます。これらの身体性の違いを克服しながら、カンパニーをつくって維持していくことは並大抵のことではありません。移動や宿泊の問題もついて回ります。そこで、私のこれまでの好奇心最優先ゆえのサバイバル経験(笑)を活かして、カンパニーづくりができないものか、と。これは、まだまだ構想段階なので、夢といってもいいのかもしれませんね。

編集部:社会的に何かしたい、ということはありますか?
森田:中学・高校時代には、パフォーマーとともにソーシャルワーカーにもなりたいと考えていたんですよ。できれば、医療関係の福祉の仕事がしたい、と思っていたんです。そんな想いもあって、最近は障がいのある人を対象に演劇やダンスのワークショップを開催しています。そして、2010年には、ワークショップデザイナーになって、様々な人と表現と学びの場づくりを行っています。また、同年からバリアフリーな人々とアートやカルチャーについて考えるファッショナブルな福祉番組「森田かずよのバリアフリーラボ」の司会進行も担当しています。この番組は、市民参加型ネット番組配信局・ソーシャルネットワーク大阪より配信。従来の「福祉」という枠を超えて、アートやファッション、カルチャーなど今を生きる人たちへの情報提供や本音を語る番組にしていきたいと思っています。この番組に寄せられた意見や情報などを「つなぎ」、そして、「わたす」ことで、新しいネットワークづくりができるのではないかと期待しています。
編集部:まさに、森田さん自身がメディアになる、という感じですね。
森田:そうですね。私は、幼いころから“広く浅くいろんな人とつきあう”ことが得意でした。その根底には「障がいがあってもなかっても同じ人間やんか!」という想いがあります。これからも、この想いを大切にして、かっこ良く生きていきたいと考えています。

最新出演作品の千秋楽の後でのスナップ

-編集後記-

-編集後記-
とても澄んだきれいな声の方でした。肺活量が少ないので、大きな声が出せないとうかがっていましたが、何のことはない、よく透る声で、楽しくお話を聞かせてくださいました。ご本人もおっしゃっていましたが、障がいに対してマイナスの意識がほとんどなく、かえってそれらをメリットにされている、とてもポジティブな印象がありました。表現するだけでなく、障がいのあるなしに関わらず、いろんな人たちをつなげたい、という想いの熱さには、ただただ脱帽する限りでした。背伸びすることなく、縮こまることもなく、等身大で自然に生きている。そんな彼女のひょうひょうとしたオーラを受けて、とても温かな気持ちになりました。良いお話をしていただき、ほんとうにありがとうございました。
森田 かずよ
-プロフィール-
森田 かずよ(もりた かずよ)
本名:森田加津世(もりたかずよ)、1977年8月14日、大阪府生まれ。血液型0型。
二分脊椎症・先天性奇形・側湾症を持って生まれる。
高校生の時に観たミュージカルがきっかけで、18歳より芝居を始める。
劇団求Q舎、夢歩行虚構団を経て現在フリー。義足の女優・ダンサーとして活動。
2001年からコンテンポラリーダンスを学び、自分の作品を創り始める。
芝居、ダンスの境界を超えて自分の身体での表現にこだわり続ける。
表現活動の傍ら、ダンススタジオ「Performance For All People.CONVEY」を主宰。
ダンス・芝居の境界を超えて様々な公演に役者・ダンサーとして出演する。
その姿はNHK「きらっといきる」、日本テレビ「24時間テレビ」などメディアでも紹介され、注目されている。
最近は身体・知的などに障がいのある人への演劇・ダンスワークショップの講師なども担当し、
それぞれが持っている身体の表現力を探り、ともに創ることにワクワクしている。
表現活動の傍ら、子ども英会話のインストラクターおよびダンススタジオ「P’spot14」のマネージャーとして働く。
2005年、母と共に「NPO法人 ピースポット・ワンフォー」設立。
2007年9月から「NPO法人ピースポット・ワンフォー なにわ創生塾」にて「朗読」「演劇講座」の講師を勤める。
芝居から始まり、ジャズダンス・バレエ・声楽・タップダンス・コンテンポラリーダンス・車椅子ダンス・
狂言・謡・仕舞(観世流・宝生流) ・フラ・・etcと経験してきたものは数知れず……。
自分の身体を使って何が表現できるのか日々追求中。
2010年、より様々な人と表現と学びの場創りをしたいと思い、ワークショップデザイナーとなる。
2011年8月、第11回北九州&アジア全国洋舞コンクール D部門バリアフリー チャレンジャー賞(第1位)受賞
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