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書家・墨アーティスト 山下雪枝さん インタビュー

“松葉杖に支えられて、障がいのある人と一緒に”書家・墨アーティスト 山下雪枝さんインタビュー

集中力が高まる。新たな才能が発見できる。筆を持つと、障がいのあるないに関わらず、心が開放されていくものです。今回は、自らに障がいがありながらも書道教室「蛍」を主宰。書を通してさまざまな障がいのある人たちのQOL(Quality of Life)の向上に努められている、書家であり墨アーティストである山下雪枝さんにお話をお伺いしました。

負けず嫌いだった少女時代。

編集部:芸術一家とお伺いしていますが。
山下:私は4人姉妹の2番目なんですが、上の姉は映像作家、すぐ下の妹は染色の現代アーティストをしています。一番下の妹は元教師です。芸術一家というほどのものではありませんよ(笑)。父は一般的な会社員でしたし、母は専ら家事をしていました。ただ、家には父が弾いていたというバイオリンがあった記憶があります。

編集部:書道は小さな頃から続けられているのですか?
山下:はじめたのは、小学生の頃でした。書道の授業の際に、なかなか上手に書けなくて残念な思いをしていました。書道教室に通えば上手に書けるようになるかもしれない……そう思って書道教室に通うようになりました。稽古の際は、先生がお手本をくれるんですが、私はお手本通りに書くことのできない生徒でした。基本をとても大切にされる先生だったので、書道の根本を厳しく指導されました。そのときの指導が、現在の私をつくってくれたのではないか、と今は考えています。中学生3年生になって、大阪市内から吹田市へ引っ越したのですが、その時に書道教室も辞めてしまいました。高校時代は、授業で書くくらいで、どちらかというとアナウンサーに憧れ、放送クラブのアナウンス部に所属していました。この頃は書家ではなく、プロのアナウンサーをめざしていたんです。

夏祭りの夜、家族と。下段右が山下さん 小学3年生(8歳)<1957(昭和32)年>のとき

編集部:山下さんが、プロの書家を意識しはじめたのはいつ頃ですか?
山下:高校を卒業して働きはじめてからですね。就職では、一般企業に勤めました。そんなあるとき、ブラジルに住んでいる友人から、“ブラジルは今、書道ブームで教える人が足りないから、こっちに来ないか”と誘われたんです。彼女は私が書道でいろいろ賞を獲っていることを知っていたんですね。結局、その話はなくなったんですが、私の心の中には“海外で書道を教えてみたい”という想いが大きく育っていきました。それが、プロの書家を意識した最初かもしれません。

最高峰の指導者との出会い。

編集部:就職してからの書の道は、順風満帆だったのですか?
山下:24歳のときに、趣味にしていた旅で出会った仲間と結婚しました。彼は関東の人だったので、結婚を機に上京し、彼と二人で「海外で書道を教える」という夢をかなえようと努力しました。でも、あまりにも私が一所懸命過ぎたので彼がついてくることができず、結局、4年ほどで離婚してしまいました。きっと、私の負けず嫌いな性格がよくなかったのでしょうね。私は、意気消沈して関西に帰ってきました。

古谷先生と出会った頃はある意味、絶頂期でした、と山下さん

編集部:関西に帰って来てからは、どんな活動を?
山下:とにかく生きていくためには働かなければなりません。そこで、知人が勤めていた紳士服の貿易をしている会社にバイトで雇ってもらいました。この頃には、“プロの書家になろう”と決意していたので、書道の師匠を探そうと京都に住むことにしました。31歳のときです。京都の寺町通には書道の本の専門店がたくさんあり、ここを巡ってみたら、きっと師匠が見つかると考えたのです。
小雨降る9月のとある日のことでした。ある書店に入ると、店主が「近くのお寺で古谷蒼韻先生の教室が開催されている。普通の人は入れないが、私の名前を言えば入れてもらえるので行ってきなさい」と親切にしてくれました。古谷蒼韻先生といえば、日展常務理事や日本書芸院常務理事を務め、文化功労者でもある日本でも屈指の書家です。私は、会場のお寺を訪ね、縁側に座って古谷先生の指南の様子をじっと見ていました。学生風の書生さんはいぶかしげに私をチラチラ見ます。一時間ほどすると古谷先生が私に声をかけてくださいました。「書道に興味があるのですか?ここに一時間も座っていた人は、これまで一人もいませんでした。ま、上っていきなさい」と。畳の上に座った私に古谷先生は「ぼくのお手本を渡すから、来週の水曜日に作品を持っておいで。それを見てうちの会に入会してもらうかどうかを決めますから」と言葉をかけてくださいました。約束した日、懸命になって書きあげた作品を見て先生は「おもしろい字を書くなぁ」と即、入会させてくださいました。
もったいないくらいの師匠を見つけることができて、これで本格的に書道に打ち込める、夢をかなえることができる。私は、寝る間も惜しんで書を書き続けました。いつか、独立して自分で書を教えられるようになることを目標に……。私は輝く未来を信じて、まっすぐに進んでいこうと、期待に胸をふくらませていました。

「変形性股関節症」-天国から地獄へ。

編集部:「変形性股関節症」には、いつ気づかれましたか?
山下:予兆は、小学4年生、10歳の頃に起きました。当時、大阪市内の陸上大会のリレー強化選手に選ばれて練習に励んでいました。ある日、股関節をねん挫してしまいました。原因もわからず、一週間ほどで治ったので、気にも留めなかったのですが、今から思えば、それが病気のはじまりでした。
次に痛みに襲われたのは21歳の頃でした。会社員だった私は、会社のワンゲル部の友人に誘われて青山高原に出かけました。高校時代から山歩きが好きで、スケッチを楽しみながら一日を山の中で過ごしたり、スキーを満喫したりしていたので、友人の誘いを喜んで受けたのです。出かけたのはよかったのですが、帰り道のこと、突然、股関節の激痛に襲われ、自力で下山することができず、部長におんぶしてもらって山を下りました。その後、病院に行くと「変形性股関節症……股関節の形成不全ですね。今は大丈夫ですが、ゆくゆくは手術が必要になるでしょう」と診断されました。それからというもの、月に2日ほどは、痛みで動けなくなってしまいました。

「10歳、21歳、33歳…10年ごとに節目がありました。」と山下さん
編集部:突然のことで、すごくショックだったんじゃないですか?
山下:それまで、動き回ることが楽しく、スポーツが大好きな人間だったので、まさか自分が病気になるなんて想像もしていませんでした。とんでもない病気になったと思いつつも、当時はことの重大さをあまり理解していなかったので、けっこう平気でしたね。
ほんとうに大変な病気だと認識したのは、古谷先生の会に入会してからのこと。33歳のある日、かつてなかった痛みに襲われました。踏ん張って書くことができなくなりました。存分に書けない……このままでは、せっかく得た書家になるチャンスを逃してしまう……。古谷先生に相談すると「書道は一生のもの。1年2年休んで、また戻ってきたらええ」と諭されました。「手術をすれば、しばらくは松葉杖が必要だが、やがて歩けるようになるし、走ることもできる。もちろん、書も存分に楽しめる」とお医者さんも手術を勧めます。そこで、私は決心しました。「手術をしよう」と。
しかし、その判断はよくなかったようです。10月に手術して翌年の5月まで入院しました。けれど、退院後も快方には向かわず、年が明けた1月に再入院して5月まで病院にお世話になりました。次に退院するときには、松葉杖が必要になっていました。最高峰の指導者と出会い最高のときを過ごしていたのに、突然のアクシデントに見舞われ、世界が一変してしまったのです。以来、10年の長きにわたって、私は「痛み」との闘いを繰り広げることになってしまいました。

年賀状が、唯一の表現活動の場だった。

編集部:手術後は、どんなリハビリをされていたのですか?
山下:独り暮らしができないので、入院している間に引っ越して、吹田市の実家に戻りました。足の痙攣で眠れない日々が続きます。痛み止めを飲んでも効きません。ヨガ、ストレッチ、自分で編み出したからだほぐし法……さまざまなリハビリを行いました。人から「効くよ」と勧められたことはすべて試してみました。四国・高知へ毎月二泊三日で一年半通ったハリ治療、電気治療に光線治療、カイロプラクティック、あげくは東京や長崎の神霊治療にまで出かけました。 苦しみ抜いたあげくに10年の歳月が流れましたが、結局なにをしても歩けるようにはなりませんでした。

山下さんの手書き年賀状(平成23年版)

編集部:そんな苦しい10年の間、書とはどう向き合われていましたか?
山下:リハビリのおかげで、痛みに耐えながらも休み休み墨をすることができるようになりました。でも、まだまだ本格的に書くことはできませんでした。ただ、手術前からはじめていた手書きの年賀状を出すことは続けていこうと思いました。年賀状なら、小さくて書きやすいし、誰もが喜んで受け取ってくれます。そうして、私は手書き年賀状づくりに注力するようになりました。毎年、一枚一枚、心を込めて書きました。それは、自分自身を励ますための行為でもありました。書は、それを発表する場所の大きさや書く紙面のサイズではなく、そこに込められた意志の強さで価値が決まる、と自分に言いきかせて書き続けました。年賀状は、この頃の私にとって、自分の明日を照らしてくれる「光」そのものでした。
この10年にわたる年賀状の活動が、後々、さまざまな「良縁」を連れて来てくれることになりました。まずは、墨アートとの出会いです。文字を書くことからはじまり、象形文字、そして線へ。墨を使って、もっと自由に表現できることに気づいたのです。年賀状は、私が現代アートの世界に入るきっかけを与えてくれたのです。また、年賀状のつながりで、さまざまな人たちとのネットワークが生まれ、後の書道教室へとつながっていきました。

障がいといっしょに歩いていこう、と決意。

編集部:10歳、21歳、33歳に続いて43歳も10年目の節目でしたか?
山下:その通りでしたね。 リハビリを10年続けてきて、気がついたんです。「誰かに治してもらおうという受け身ではいけない。今ある自分を認めて生きていこう。一生、松葉杖でもいいじゃない。障がいといっしょに歩いていこう」と。そういう考えを持つと、不思議なことに、これまで鉛のように重かった足が軽くなり、痛みが引いていきました。1994(平成6)年のことでした。10年にわたった痛みとの闘いにようやく終止符が打たれたのです。私は、痛みが引いてからの数年、大好きな旅行を満喫しました。手術以前の活発な私を取り戻したのです。あるがままの自分を受け入れることで、忘れていた本来の自分に戻ることができたのです。

痛みがなくなり活動的に旅先の秋田県八幡平頂上でのスナップ

編集部:痛みが引いて、書にも影響がありましたか?
山下:座って心おきなく墨がすれるようになり、痛みを感じることなく書けるようになりました。ようやく、書に向かいあうことができ、創作をはじめました。そして、その年には、友人からの依頼で、自宅で書道を教えることもありました。このように、いろんなことが良い方向に回りはじめたのです。さらに、年賀状のご縁で、書道教室の講師になってもらえないか、という複数の依頼が来ました。2001(平成13)年のことでした。
ひとつは、豊中市立蛍池人権まちづくりセンター。こちらは作品展を間もなく開催するので指導をしてほしいということで、短期間の契約でした。もうひとつは、吹田市にある垂水デイサービスセンター。こちらは病院を併設したケア施設で、60歳から100歳までのシニアの方、障がいのある方を対象に書道教室を開催しました。最初、15名だった生徒さんが終了時には60名になっていました。作品展も2回開催し、本人にはもちろん、ご家族やお医者さんにまで、たいへん喜んでいただき、3年半ほど指導を続けました。このように、やっと、私は書を通じて、社会に貢献することができるようになったのです。

書道教室「蛍」主宰。本格的な活動をはじめる。

編集部:蛍池人権まちづくりセンターの書道教室は短期間で終わったんですね。
山下:そうなんです。1年余りでした。ただ、この教室に参加していた方々の「ぜひ、どこかで再開してほしい」という要望もあり、2002(平成14)年に書道教室「蛍」を主宰することにしました。知的障がいのある方5名を対象にはじめて、今は8名が教室に通ってくれています。

編集部:「蛍」の活動を通じて、得られたものはなんですか?
山下:開設以来、もう10年になるんですが、生徒さんからは、実にたくさんの“チカラ”をいただいてきました。彼らは、いつも全力でぶつかってきます。私は、常に心を透明な状態にしておかないと、彼らと向き合うことができません。いつも真剣勝負なんです。教室があった日の夜は自問自答し、反省ばかりしています。「今日は、手を抜かず真剣勝負できていたのか……」と。でも、この真剣勝負が、書家の想いの押しつけになってしまうと、うまくいきません。純粋な生徒さんたちは、たちまちパニックに陥ります。4~5年前のことです。「もっと筆に墨を含ませたら、きれいなにじみの出る字が書けるのに……」と思い、生徒さんの手をとって、筆をすずりに浸しました。とたんに、生徒さんは叫んでパニックに陥り、その日はいい状態で書くことができませんでした。
このように、上からの立場で対応したとたん、いい関係は崩れてしまうのです。常に、彼らと同じ立場でいることが求められます。でも、それは決して難しいことではありません。だって、彼らも私も同じ人間なのですから。私は彼らに教えていながら、教えられています。逆に彼らは私に教えられていながら、教えてくれているのです。そんなふうにつきあえば、決して上からや下からという関係にはなりません。

みんな真剣に書に取り組む書道教室「蛍」の様子

障がいがあったからこそ、今の自分がいる

尾道で開催された個展「山下雪枝 墨展」にて

編集部:最後にお尋ねします。山下さんにとって「障がい」とはなんですか?
山下:う~ん、そうですね。うまく言えませんが「宝物」みたいなものでしょうか。「障がい」があったからこそ、いろんなことが見えてきました。いってみれば、「障がい」を持つまでは“明るいところばかり見て暗いところを意識していなかった”のです。ところが障がいを持ってからは“明るいところも暗いところも含めて全体が見えるようになった”と感じています。手術する前の私は、自信過剰で他人の気持ちを推し量ることもできず、なんてわがままだったのだろうと思います。そんな私が、人の心を気づかい、人の幸せを願い、日々安らかな気持ちで生きていられるのは、「障がい」を持ったからこそだと思っています。「障がい」を持てたから、上下にブレることのない、「同じ立場」でおつきあいすることができるのです。
書道教室「蛍」は、もう10年を過ぎました。時間が流れるのは、あっという間です。私自身、まったくといっていいほど、時の流れを感じていません。スタートさせたのが、まるで昨日のように感じるときもあります。それはきっと、この教室で、生徒さんと「時間ではなく空間というかその場の空気感のようなもの」を共有してきたからではないかと考えています。この空気感の共有が、私の書家そして墨アーティストとしての大きな糧となっています。これからも、書道教室の講師とアーティスト、それぞれのポジションで得た知識やご縁を互いにフィードバックさせながら、社会のお役に立てたらなぁ、と考えています。

-編集後記-

よく透る声でハキハキと話されるのが、とても印象に残った山下さん。もともとアナウンサー志望だったというのが納得できました。言葉のひとつひとつに強い意志が込められていて、とても頼もしく感じられました。書道の先生と現代アートの作家。ふたつの顔が「障がい」というブリッジで結ばれて、お互いに良い影響を与えながら、どんどん成長していっている様子が、とても感動的でした。自分に厳しく接していて、「自律」という言葉がとてもフィットする山下さん。これからも「自立」した人生を歩んでください。
山下雪枝
-プロフィール-
山下 雪枝(やました ゆきえ)
書家・墨アーティスト。書道教室「蛍」主宰。1949年生まれ。書家・古谷蒼韻師に師事するも33歳の時に変形性股関節症のため右足を手術、約1年の入院の後、松葉杖の生活となり師事を断念。10年間の痛みとの闘いの後、1994年より書や墨アートの創作のかたわら自宅で書道教室を開く。
2002年より豊中市蛍池公民館で書道教室「蛍」を主宰。自ら障がいを持ちながら、10年にわたって知的障がいを持つ方々と歩み続けている。現在は、書道教室での指導とともに、書家および墨アーティストとして精力的に活動。日本全国をフィールドにして個展を開催し、作品を発表し続けている。
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